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スコットランド協会の「スコットランドを語る会」2004年9月30日発表レジュメより |
1,スコトランドは独立の法体系を持つ 1707年の併合前後、判例拘束性、議会復活、最高裁判所は国会、EU法との関係 典型的な英米法系ではなく、大陸法的な混合法系と説明される 適用する法律選択の問題、一種の国際私法、人種的・場所的・時間的抵触、ローマ法まで遡ることもある 2,ウイスキーに対する重税の歴史について 1644年 スコットランド議会、スピリットに課税(世界初、アイルランドは1661年)。課税率1スコッツ・パイント(約3分の1ガロン)あたり2シリング8ペンス。 1657年 蒸留所の免許制と収税吏の権限確立を定めた酒税法制定(土屋守) 1689年 フェリントシュの領主ダンカン・フォーブスは蒸留所を消失したときの賠償金をスコットランド議会へ寄付し、表彰され、毎年400スコッツ・マークス(£108000?)を支払うだけで、永代免税特権を得る。1784年に剥奪。ロバート・バーンズの詞。 1702年 グラント地方管轄区の裁判所記録に、死刑囚のためにスピリットを提供した罪(30回の鞭打ちの刑)の判決あり。 1707年 併合、条約によりイングランドと酒税統一。 1713年 イングランドの麦芽税がスコットランドへ拡大。但し、品質が悪いので税率は半分。 1748年 発酵液に推定課税を行う蒸留事業法制定(土屋守) 1757年3月〜60年12月 イギリス国内の全ての蒸留を禁止(自家用消費は可)。前年の大凶作のため。 1772年 蒸留器のヘッドの部分に鍵を取り付ける。 1774年 400ガロン(1800リットル)以下の粗留器と100ガロン(450リットル)以下の精留器での蒸留禁止。 1779年 自家用消費用蒸留器の最低限を10ガロンから2ガロンに下げる。 1781年 自家用蒸留の禁止。密告者と収税吏に報奨金。陸軍の援助可。 スピリッツのアルコール度数を正確に計るための比重計の法制化。 1783年 収税吏は密造酒の運搬用馬車も押収可。 密閉型発酵槽の禁止。冷却用蛇管の先端の開放の義務化。 1784年 発酵醪法を導入、課税方法を簡略化(粗留液と精留液とに課税していたのを、発酵醪1ガロンに対し5ペンスに統一)且つ税率低減。アメリカ独立戦争終結。 ハイランド地方について特別措置、20ガロンの蒸留器1基であれば、近隣の穀物を使用することを条件に、1ガロンあたり年間1ポンドの費用で蒸留免許が得られる。麦芽は免税。 1785年 ハイランド地方からの輸出禁止。蒸留器の大きさは30〜40ガロンへ、又、2基まで拡大された。 1786年 ローランドへも蒸留器容量に基づく免許制度が拡大(2年間継続された)。但し、1ガロンあたり2ポンド10シリング、更に輸入穀物を使用又はイングランド向け輸出用には追徴。 1788年 ローランド免許法制定。イングランド市場向けに製造する場合は12ヶ月前に届け出で義務化。粗留釜は200ガロン以上、精留釜は50ガロン以上に制限。輸出関税の引き上げ。 同年7月 ローランドでは蒸留器容量1ガロンあたり1ポンド10シリングから約2倍の3ポンドへ引き上げ。 ロバート・バーンズはダンフリー州の自宅からの手紙の中で、高速蒸留に関し「この地方のウイスキーはもっとも哀れな酒であって、それ故にもっとも哀れな住民にのみ飲まれている」と書く。 1793年 ローランドでは蒸留器容量1ガロンあたり3ポンドから3倍の9ポンドへ引き上げ。革命後のフランスにたいする軍事費。蒸留の迅速化。ハイランドでは蒸留器容量1ガロンあたり1ポンド10シリングへ引き上げ。 1795年 ローランドでは蒸留器容量1ガロンあたり9ポンドから2倍の18ポンドへ引き上げ(1797年までに5倍以上に増税)。ハイランドでは蒸留器容量1ガロンあたり2ポンド10シリングへ引き上げ。 1796年 ローランドでは蒸留器容量1ガロンあたり54ポンドへ引き上げ。 1797年 ハイランドでは蒸留器容量1ガロンあたり6ポンド10シリングへ引き上げ。ハイランドとローランドの中間地帯は1ガロンあたり9ポンドに引き上げられた。 {トーマス・トレイルはオークニー島の市長(1792〜1812年)であったが、密蒸業者と手を組みとらえられたが、地主でもあるウイリアム・グラント治安判事は情状酌量し不問若しくは僅かな罰金だけを科した。} 1814年 徴税の簡素化のため容量2,250リットル以下の蒸留器を禁止。 1816年 ハイランド・ラインの廃止。 1821年 麦芽と穀物以外の原料をウイスキーに使用することを禁止。密造対策委員会設置。 1822年 スコットランド密造蒸留法制定。 1823年 新酒税法。年間£10の免許料に下げる。スピリット・セーフ(ポートエレンで実験、無影響)導入。80ガロンに満たない樽の使用禁止(認可を受けた船舶の貯蔵庫用を除く)登録蒸留所111から263カ所に増加。地元民に反対派がいた。 1824年 パイプへの色付けの義務化。赤は麦汁あるいは発行醪。青はローワインズあるいはフェインツ。黒はスピリット。白は水。 1825年 イングランドの蒸留酒は減税。スコットランドとアイルランドの酒税を2シリング6ペンスから2シリング10ペンスに増税。 1827年 外国穀物輸入制限に関する穀物法の規制緩和 1830年5月12日 ヘイグのスタイン蒸留器が公式に免許取得 同年 イーニアス・コフィーのパテントスティル完成 同年 ビール税を廃止。イングランドの蒸留酒は1シリング、スコットランドとアイルランドでは2.5ペンス引き上げ。イングランドへ輸出するときにスコットランドで支払った酒税が戻る特権も廃止。 1846年 穀物法の撤廃。穀物の輸入が自由化。 1847年 糖蜜と糖を発酵醪に加えることを認める。 1853年 同一蒸留所内に限り熟成年数の異なるウイスキーのブレンドが許可される(土屋守)。 1853〜55年 英国内の税率を均一にするグラッッドストン法によりスコットランドの酒税が2倍に増税。 1855年 グラドノック法の改正で麦芽戻税制度廃止。 工業用アルコールは無税に。 1860年 蒸留酒法(スプリット法)制定。保税倉庫内で未納税のままブレンドし木樽による貯蔵可。 1861年 「シングル・ボトル」法により専用のラベルを貼った酒類販売可。 1864年 認可された貯蔵庫でスピリットに加水することが可能となる。 1867年 保税倉庫内で国内消費用のスピリットをつめビン詰めが可能になる。 1890年 ブレンド・ウイスキーの制限に関し英国議会下院に特別委員会設置。結論は消極的。 1901年 グレーンウイスキーにほんの少量のモルトを混ぜたブレンドをモルトウイスキーとして販売し、詐欺の判決。 1905年 11月食品・医薬品販売法(1875年)違反で2人種類販売業者を起訴。そのアイリントン・ボウ審議会でウイスキー論争。9割留レーン、モルト1割で「ファイン・オールド・スコッチ・ウイスキー」とした。判決は、ブレンド側の敗訴。 1906年 その控訴審。 1908年2月中旬 問題可決のため王室委員会設置。 同年7月 報告書、麦芽のジアスターゼで糖化した発酵醪を蒸留したスピリットであり、このような方法によりスコットランドで蒸留したウイスキーがスコッチウイスキーである。 参考文献:「スコッチウイスキーの歴史」ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス署 坂本恭輝訳 国書刊行会 3,スコッチウイスキー法による定義(詳細) 連続式蒸留器の発明、ブレンドウイスキーの考案、法廷論争の司法の結論を踏まえて、1909年に制定。 1988年改正のスコッチウィスキー法では「スコッチウィスキー」は下記のウィ スキーを意味しています。 (a)スコットランドの蒸留所で水と発芽した大麦(精製していない他の穀類が加えられることもある)で作られ、 1.
蒸留所でマッシュ(モロミ)にされ、 2.
麦芽内生の酵素作用のみにより基質(酵素の作用を受ける物質)に変えられ、 3.
イースト(酵母)のみが加えられ発酵され、 (b)その蒸留液が、使用した原料、製造の方法から引き出された芳香と風味を失うことなく、アルコール度94.8%以下で蒸留され、 (c)容量が700リットルを越えないオークの樽に詰められて最低3年間にわたりスコットランドの保税貯蔵庫の中で熟成され、 (d)使用した原料、その製造や熟成方法から引き出された色、芳香、風味を失うことなく、 (e)水とスピリッツカラメル以外は加えられていないもの。 以上 渋谷 寛 |