スコットランドの相続税は98パーセント

 
 スコットランド専門の評論家の存在
  未だかつて耳にしたことはないであろうが、スコットランドを専門とする評論家がいる。知る人ぞ知る土屋守氏である。彼はロンドンにジャーナリストとして在住していたころ、スコットランド産のウィスキー即ちスコッチ・ウィスキー中でもシングル・モルト・ウィスキー(アイラ島産のボウモア12年)を口にし、その煙臭さに底知れぬものを感じ衝撃を受け、それ以後スコットランドのありとあらゆるウィスキー蒸留所を取材して巡り「モルトウィスキー大全(1995年小学館刊)」というマニアックな本まで刊行してしまったのである。この本が予想外に売れたためテレビに出演することも度々あり、今や日本を代表するスコッチ・ウィスキー評論家と呼ぶことができよう。関心を持ったスコッチ・ウィスキーが何であるかを知るためには、その誕生の歴史を知らなければならず、その為にはスコッチ・ウィスキーを生み出した母国であるスコットランドという国自体の風土を良く知らなければならない。こうして土屋氏はスコットランドのことを詳しく調べるようになり、ついにはスコットランドを専門とする他に類を見ない評論家となった。

 
 スコットランドとイングランドの対立
  フット・ボール(サッカー)やラグビーのワールドカップの試合を見ても、イングランドとスコットランドは別々のチームとして参加する。大英帝国はあくまで連邦国家でありイングランド、スコットランド、ウェールズと北アイルランドとを合わせた国である。イングランドとウェールズの間は幾分仲良さそうだが、イングランドとスコットランドとの間には長くて複雑な闘争の歴史があり、一見仲が良さそうに見えて批判しあうことも実は多い。例えば、スコットランド人がお祭り(国民詩人ロバート・バーンズの生誕祭)のときに必ず食べる伝統的スコッチ料理であるハギス(羊の内臓とタマネギをミンチにして牛脂とカラス麦を加え塩胡椒で味付けしたもの)を、イングランド人は下手者が食べる物かの如くに嫌い気持ち悪がり全く食べようとしない。更にイングランド人は、スコットランド人が主食とするカラス麦はイングランドでは馬の餌でしかないと酷評し、スコットランド人はこれを受けてだからイングランドでは馬が優秀であり、スコットランドでは人が優秀なのだと反駁する。イングランドとスコットランドとの対抗意識は相当根深かそうである。

  
 独自の法体系としてのスコットランド法
  一般に英米法とりわけ英国法というと、スコットランドを含めた連合王国全体の法制度を指すものとして理解されている。そうだとしたらそれは大きな誤りである。英国の中でもスコットランドは独自の歴史的法が残っており法体系が異なる。イングランド(ウェールズ及び北アイルランドも同様)が典型的なコモン・ロー(一般慣習法)の国であることは確かであるが、スコットランドはフランス文化の影響を受けローマ法を継受した大陸法系に属する国なのである。ここでイングランド法とスコットランド法は大きく異なることを知らねばならない。例えば、契約の成立に関する、当事者間に契約上の義務を負うとの合意さえあればそれにより訴訟によって実現されるべき契約上の利益が発生するスコットランド法と、それだけでは足りず更に「約因(Consideration)」と呼ばれるもの(契約者の利益と受約者の損失という関係)の存在があってはじめて当事者の合意は強行可能なものとなるイングランド法との対立が挙げられ、この違いは「第三者の為にする契約」を肯定するか否かにつながる。他のより身近な例としては、ロンドンの居酒屋(パブ)は法律上午後11時には閉店しなければならないのに対し、スコットランドのパブは午後11時半まで営業できる。酒好きにとってこの時間帯の30分の違いは非常に大きく、法制度の違いを身をもって痛感する時である。
  これらのように両国間においては未だに法の統一は図られず、裁判制度も自ずと異なる。もっとも、司法制度においては貴族院(連合王国の最高裁判所)において統合がはかられ、イングランドの判例が先例拘束性の原理(大陸法系のスコットランドにはなかった法理)によりスコットランド法に影響を与えている。最近約300年ぶりにスコットランド議会が復活したが、こうなると今後は立法においても遺憾なく独自性を発揮できることになろうから、スコットランドは再びイングランドから独立したようなものであり、時代の流れはスコットランドに注目せよといわんばかりである。私はこの投稿を期に残りの半生をスコットランドの文化なかでもスコットランド法の研究に費やすことを誓おう。 

 
 スコットランドにバリスターはいない
  イングランドの弁護士が、依頼者と直に接触・交渉できる反面法廷において弁論することはできないソリシター(事務弁護士)と、依頼者と直接接しない反面法廷において弁論をなし得るバリスター(法廷弁護士)の二種類(二階層)に分かれることは知られているが、スコットランドにはソリシターはいてもバリスターと呼ばれる弁護士はいない。バリスターに当たる上級弁護士のことは「アドボケイト(Advocate)」と呼ぶのである。ところで、「アドボカート(Advocaat)」と聞くと、スノー・ボール、バタフライ等のカクテルに使われることで有名なオランダ産の卵からできた甘いカスタード・クリームのようなリキュールを思い出す人がいるに違いない。このリキュールは、それを飲むと「弁護士のように弁舌さわやかになる」と解説されている。オランダ語で弁護士のことをアドボカート呼ぶ(因みに、ポルトガル語も同様)。オランダの弁護士とスコットランドの上級弁護士との間にはいったいどんな歴史的つながりがあるのだろう。

 
 シングル・モルト・ウィスキーとは
  リキュールという洋酒の話が出てきたところで、土屋氏がこよなく愛するシングル・モルト・ウィスキーに話を戻そう。ウィスキーの種類としては、その産地の違いによりスコットランド産のスコッチ・ウィスキー、アメリカ産のバーボン・ウィスキー(原料の51%以上はトウモロコシでなくてはならない)、日本産のジャパニーズ・ウィスキー(原料である穀物に制限のない)等に分けることができるが、全て穀物を原料とした蒸留酒(穀物を湯に浸した液体を発酵させた後アルコール分だけを蒸発・冷却させて抽出する過程を経た酒)という点で全て共通する。この中でスコットランド国内で蒸留され且つ熟成されたウィスキーだけをスコッチ・ウィスキーと呼ぶことができるのである(1988年スコッチ・ウィスキー法、今世紀初頭に生じた何をもってスコッチ・ウィスキーと定義するかについての法廷闘争については別の機会に触れることにする、とりあえずここではScotch Whiskyと綴りWhiskeyとは綴らないことに注意して頂きたい)。そして大麦だけを原料とするモルト・ウィスキーと穀物なら何でも例えば格安に手に入るトウモロコシをも使用することが許されるグレン・ウィスキーとに大別される。因みに使用される蒸留器も、前者が個性ある酒を造り出すに適する単式蒸留器(ポット・スチル)であるのに対し、後者が個性を感じさせない大量の酒を間断なく造るのに適した連続式蒸留器(パテント・スチル)と異なる。そして、個性溢れるモルト・ウィスキーと飲みやすいグレン・ウィスキーとを混ぜ合わせたものが(シーバス・リーガル、ジョニー・ウォーカー、バレンタイン、ホワイト・ホース、カティーサーク等で有名な)ブレンデット・ウィスキーとなり、同一の蒸留所で生産されたモルト・ウィスキーだけを使用したものがシングル・モルト・ウィスキーと呼ばれるのである。
  もう少しウィスキーに関して書き足すと、そもそもウィスキーの語源は古代ゲール語のウイスゲ・バーハ(uisge beatha)に由来し、これはラテン語でアクア・ヴィテ(aqua vitae)「命の水」を意味するが、これが18世紀には短くなりウスケー(usky)、そして1710年頃英語のウィスキー(whisky)へと転訛したのである。ウィスキーの製造過程で、大麦は発芽する間工場の広い床にばらまかれており(このフロア・モルティング製法を守る蒸留所はもはや少ない)、小鳥やネズミの格好の餌となる。これを退治するために蒸留所では必ず猫が飼われ、ウィスキー・キャットとかディスティラリー・キャットと呼ばれ重要な役割を果たしてきた。グレンタレット蒸留所にいたタウザーという雌猫(1987年3月7日没)は生涯を通じて28、899匹のネズミを捕りギネスブックにも載っている。詳しい説明は名著「モルトウィスキー大全」に譲るとして、ここでは酒税法との絡みに触れてみよう。

 
 重税としての酒税法
  日本においても一昔前酒税法に関する事件(最判平成4年12月15日等)が世間を騒がせたが、スコットランドにおいても大昔から市民は酒税法と戦ってきた。1707年にスコットランドがイングランドに併合された後、イングランドはウィスキーを造るスコットランド人に対し高額且つ不均衡な酒税を課した。併合されてしまったスコットランド人は、自国の誇りにかけても忌々しい税金を払うまいとウィスキーの密造に勤しんだ。イングランドとの国境に近いスコットランド南部(ローランド地方)においては、イングランドの酒税官によって摘発されやすかったため、北部(ハイランド地方)において密造は盛んに行われた。更に見つかり難いようにと、蒸留所の多くはハイランドの山奥深い川沿いの谷に設置された。スペイ川の流れるスペイサイド地域には50以上の蒸留所が集中して存在する。このハイランド地方のケルト語系の言語であるゲール語では谷のことを「グレン」と表すが、シングル・モルトウィスキーの銘柄にはこのグレンの語が使われることが非常に多い。グレンフィディク、グレンモーレンジ、ザ・グレンリベット等数え切れないほどある。それだけ、見つかり難い谷間において密造が横行されていたことを裏付けるかのようである(ウィスキーの仕込み水となる美味くて綺麗な水が容易に採取できるから蒸留所は川沿い即ち谷に多いという説明にも説得力を感じるのであるが)。大きな蒸留釜を設けてしまうと、それだけ酒税官に見つかり易くなってしまうから、当時は極めて小振りな蒸留釜が作られていた。高さ60センチほどの家庭用の蒸留釜さえあり、我が国で今ブームとなっている地ビールならぬ自家製ウィスキーを造っていたのである。密造を防ぐため1823年には法律で40ガロン(約160リットル)以下の蒸留釜の設置を禁止した程である。因みに現在ではエドラダワー蒸留所の人の背丈ほどしかない蒸留釜(容量2182リットル)が最小サイズである(皆様には行きつけのバーでボトルを手にしラベルの表示にて確認して頂きたい)。
 当然の如く密造者には厳罰が課されることになっていたが、密造者は原料としての大麦を大量に買い付けていたところ、大麦を耕作する程の広大な土地を保有する貴族には得てして名誉職である裁判官がいたりして、そんな裁判官は大麦を大量に仕入れてくれる有り難い密造者に対して手心を加え、罰金を非常に軽くしたとの噂も残っている。
 当時はでき立てで無色透明な蒸留酒(スピリッツ)を、貯蔵することなくすぐに飲んでいたが、あるとき酒税官に見つからないようにと廃樽に入れて隠しておいたところ、その酒は木樽の影響を受けよりまろやかになり、しかも濃くのある、ほど旨い酒へと昇華した。何年か樽の中で寝かした方が美味しくなることを偶然にも発見し、こうして現在の樽熟成を経るスコッチ・ウィスキーが誕生したのである。現在では、3年 以上樫 (カシ)材(より厳密には楢 (ナラ)材の一種)の木樽の中で熟成しないとスコッチ・ウィスキーとして認められない(1988年スコッチ・ウィスキー法)。8年から15年の熟成期間が現在の主流であろうが、1年間樽の中で寝かす毎に(貯蔵庫のある場所によっても異なるが)約1%から3%のウィスキーが蒸発して中身が少なくなる。木肌をすり抜けて空中に消えて行った分を「エンジェルズ・シェア(天使の分け前)」と呼ぶ。例えば52年間熟成のウィスキー(マッカラン蒸留所等)も存在するが、樽の中にはおそらく4分の1程のウィスキーも残っていなかったであろう。60年も寝かせると空っぽになってしまうともいわれている。中身が減った分だけボトリングできる本数も減り、市場価格は跳ね上がる。もっとも熟成年数が長ければ長いほど美味しいというものでもない、本来スピリッツがもつ個性的な旨みが薄れ過ぎてしまうからである。アイラ島にあるラガバーリン蒸留所では16年間熟成がベストの味であると信じて疑わず変えようとしない。スコッチ・ウィスキーの魅力は伝統を守る職人の頑固さにもあろう。
 話は少し逸れるが、蒸留所のマネージャーにスコッチ・ウィスキー造りで一番大切なものは何かと尋ねると「昔と変わらない味を作り続けることだ」との答えが返ってくる。より旨いウィスキーを造ることよりも、より昔の味に忠実なウィスキーを造ることの方が彼らにとっては大切なのである。銅製の蒸留釜の寿命は約10年から20年と意外と短いが、その蒸留釜を据え換えるとき従前のものと全く同じ大きさ・同じ形・同じ材質の物を注文するのである。それも、昔と味が変わらないようにとの信念からである。変わらぬ味を提供することに心血を注ぐ、その理由には職人気質としての頑固さの他にブレンデット・ウィスキーとの関係が考えられる。ブレンデッド・ウィスキーはモルト・ウィスキーとグレン・ウィスキーとを何十種類もブレンドしたものであるが、個性の強いモルト・ウィスキーの味が各蒸留の度毎に変わってしまえば、ブレンダーは調合の割合を毎回決め直さねばならずこれではお手上げである。毎回変わらない味で製造できる蒸留所だけが、原酒として大量に買い付けてくれるブレンデッド・ウィスキー業者へ供給することが許されることになり経営が安定するのである。
 逆に、ブレンデッド・ウィスキー業者への供給に頼ることなくシングル・モルト・ウィスキーの直の販売に主眼をおいている蒸留所は、味の安定性に拘泥することなく、通常バーボンの廃樽のみを使用して(マッカラン等シェリー酒の廃樽を使う蒸留所もある)熟成するところ、成熟の仕上げとしてポートワインの廃樽を使いポート・ウッド・フィニッシュと命名したりして、如何にしたらより面白く、美味しいウィスキーができるかを試し楽しんでいる。ハイランド地方のタインの町にあるあのグレンモーレンジ蒸留所がその典型といえよう。

 
 我が国に知られていないアラン島
  スコットランドで一番古い蒸留所が何処(1680年創業のフェリン・トッシュ蒸留所?)であるかについては議論のあるところであるが、現在約80ヶ所残る蒸留所に限れば、ハイランドにおいては1786年に創業したストラス・アイラ蒸留所であり(皆様には行きつけのバーでボトルを手にしラベルの表示にて確認して頂きたい)、リトル・ミル蒸留所が操業を停止した今、スコットランド一古い蒸留所は1775年創業のグレンタレット蒸留所ということになろう。逆に一番新しい蒸留所は何処かというと、アラン島にあるアラン蒸留所であることは明確である。アラン島にはかつて「アラン・ウォーター」と称され評判の高い多くの蒸留所があったが、いつの間にか全て消滅し1995年に150年振りに蒸留所が復活したのである。
  アラン島は、スコットランド南西のキンタイア半島に包み込まれるように位置するクライド湾内にある島であるが、英国では王室とのつながりが深いことで有名であり、ロイヤル・アイランドとの別称まで付けられている。スコットランド独立(1314年)の英雄ロバート・ザ・ブルース王がイングランド軍の追っ手を逃れこの島の洞窟(キングス・ケープ)に逃げ潜んでいたとき、一匹の蜘蛛が何度も繰り返し諦めることなく巣作りに挑戦するのを目にし不屈の精神を学び再び立ち上がり、ついにバノック・バーンの戦いで沼地に足を取られたエドワード2世率いるイングランド軍を下して独立を勝ち取った話は有名であるが、そのとき出陣の拠点となったのがこのアラン島の北端に位置するロック・ランザ城であった。約4年前に挙行されたアラン蒸留所の開設記念式典にエリザベス女王陛下がブリタニア号での航行中わざわざ立ち寄ったこともあった。
  「アラン」というとアランセーターを思い浮かべる人も多いであろうが、そのアランはアイルランドのアラン(Aran)諸島のことであり、スコットランドのアラン(Arran)島とは異なるのである。アラン島は日本でいえば淡路島程の広さ(427万平米)で、人口5000人程の小さな島であり、スコットランドの四季が一日に凝縮されたスコットランドのミニチュアと呼ばれる英国人の良きリゾート地でもある。

 土屋守氏の取材に同行
  1999年の春、土屋守氏がこのアラン島の雑誌の取材に出向くとの話に、私は即座に便乗し同行した。土屋氏は日本人にはあまり知られていないこのアラン島を紹介しようとしていたのである。スコットランド一の大都市グラスゴー(人口約80万人)の空港からレンタカーで約1時間アードロッサン港からカー・フェリーに乗り更に約1時間経つともうアラン島に着いてしまう。アラン島は思いの外近いというのが第一印象である。土屋氏と私は、まずアラン島南端に位置する故ダイアナ妃も訪れたことのある食品工場アラン・ファイン・フーズを視察することにした。ここではマーマレードなどのジャム、マスタード、チャツニー、サラダ・ドレッシング等スコットランドらしい味わいの食品を生産している。ところが、この工場では水を除いてアラン島産の原料を使うことなく世界各地から厳選して原料を取り寄せ、王室に縁のあるアラン島において製造されたとういう高貴なイメージを売り物にしている。勿論王室のイメージに合わせて高品質の材料を使っているから、製品はどれも贅沢なまでに美味しい。最近日本へ直接輸入する業者もあらわれたから、国内でも手に入れることが可能となった(詳細を知りたい方は雑誌「サライ」`99年11月18日号124ページ以下をお読み下さい)。

 アラン蒸留所
  食品工場の試食でお腹を満たした後、アラン島北東部に位置するアラン蒸留所を視察することにした。最新の蒸留所と聞くと巨大な工場を連想しがちであるが、実際訪れてみると非常に小じんまりとしている。モルト・ウィスキーの製造過程における糖化槽(マッシュ・タン)、発酵槽(ウオッシュ・バック)、初留釜(ウォッシュ・スチル)・再留釜(ローワインズ・スチル)等の一連の行程が壁の隔たりなく一望に見渡せるのである。蒸留釜の形態はマッカラン蒸留所の凹凸の少ないスムースなその形によく似ていた。密造しているわけでもあるまいに比較的小さな蒸留釜であった。その蒸留所の所長ゴードン・ミッチェル氏の感一つで蒸留過程のバルブが調整される。ポットスチルで蒸留が始まるとそれ以後は酒税の課税対象となる。それ故容器のケースには酒税官の鍵がかかっており、蒸留途中の酒(スピリッツ)を味見することは工場長とて許されない。そこで、スチルマンは吹き出す酒の勢いを見て味を判断する。そして、一回の蒸留のうちで始めと終わりの質の悪い部分を除き、中程の質の良い部分だけを次の行程(二回目の蒸留)にまわすのである。この手順をミドル・カットと呼ぶ。
  単身赴任している彼は愛鳥家であり、とっても小さな対のアヒル、ペット・ショップで5千円程で手に入れられるという孔雀等々様々な鳥を蒸留所の庭に放し飼いにしているのである。勿論、鳥たちの餌はウィスキー造りの過程で余り物となった穀物の粕であり、餌代はかからない。
  アラン蒸留所の熟成樽の貯蔵庫(ウエア・ハウス)を覗くと、さすがに王室に縁のある島の蒸留所だけあって、チャールズ皇太子の息子ウィリアム王子やハーリー王子の名が記された樽を目にすることができた。ここでは約26万円の費用を支払うと誰でも自分の樽(ホグスヘッド容量約250リットル)を貯蔵できる。何年間寝かしたら飲み頃になるだろうか、そう考えるだけで胸躍る至福の時を手に入れられると思えば安い買い物であろう。

 
 物納されたブロデック城
  何時かは「マイ樽」との夢を抱きつつ蒸留所を後にし、最終目的地である古城ブロディク城を訪問した。通常この城の内部は撮影禁止であるが、土屋氏が取材の申請をしていたので特別の許可が下り、私もカメラのシャッターを切ることができた。この城は以前ハミルトン家が所有していたものであるが、その城内の遺産は散逸されることなく見事なまでに保存されている。玄関ホールではまず87頭にも登る牡鹿の剥製が出迎えてくれた。歴代の主を描いた巨大な肖像画、イギリスの有名な風景画家ターナーが描いた油絵、マイセンの磁器をあしらった置き時計、未だかつて見たことのない貴重な銀製品のコレクション群等どれもが極めて良い状態で保存されていた。
  この城は現在、スコットランドの史跡保存協会ナショナル・トラストの管理下にあるが、この管理に移るにはそれなりの理由があった。1957年この城の主であったメリ−・ルイーズ・ハミルトン公爵婦人が亡くなり、この城とアラン島の全土地が相続の対象となった。相続人は4人の子供であったが、公爵婦人の遺族といえども相続税を納めなければならないことに変わりはない。ところが、当時相続税率は何と相続財産の98%なのであった。私は、その説明を聞いて自分の耳を疑ったのであるが、同協会のプロパティー・マネージャーであるケン・ソーバーン氏に何度聞き直しても「98%」と答えるのである。イギリス労働党のスパー・タックス政策の産物らしい(現在は40%程に落ち着いているようである)。資産をもつ貴族とてもこれだけの相続税をそう易々とは納められず、アラン島全土とこの城の所有権を相続するはずの遺族は、やむなくこの城塞、広大な庭園と城内の全ての宝物をナショナル・トラストに寄贈し相続税の支払いを軽減してもらい、現在はアラン島のその他の土地のみを遺族で分割所有している。
相続税率が98%であったことにも勿論驚かされたが、スコットランド法特有の「長子単独相続生」という前近代的な土地相続法制の残影であろうが、この広大なアラン島の土地の殆どを未だに一同族が所有していることにも驚かされた。
  世紀末における土屋氏との貴重な視察旅行であった。


・スコットランドで一番首の長い(5.13m)のっぽな蒸留釜、グレンモーレンジ蒸留所にて。
 
・蒸留所のペットたち
 
・ウィリアム王子とハーリー王子がそれぞれ所有する樽、3年以上寝かせたので中身はスコッチウィスキーに昇華した。
   
・アラン島ブロディック城の玄関ホール、マントルピースの上にハミルトン家の木彫りの紋章が見える。↓
・ブロディック城内の応接室の豪華なレリーフのある天井。↑